できない人の「できない」はできる人が想像できないくらいにできない

久しぶりにお絵描きしていて再確認したこと。

自分はプログラミングに関しては、どちらかといえばできるほうだと自覚している。
仕事でプログラミングができないプログラマと話していると「え、こんなこともわからんのか」と思うこともある。
さらに説明しようにもその前提知識がないので中々話がかみ合わなかったり時間がかかったりする。
ただしこれは自分の言語化能力が不足しているだけである。

一方でお絵描きについてはからきしであり、全く得意ではない。
よくお絵描きの入門書等を見るとまず円を描く、立方体を描いて立体感を把握する、とか書いてある。
自分は円が書けない。立方体が書けない。立方体から立体感を感じ取る能力がない。
これを描いている人は丸くらいは誰でも書けるとか、立方体を見れは誰でも立体感を感じ取れると思っているのだろうか。
まさかこれもできない人がこの本を手に取っているとは思ってもないのかもしれない。 こうして自分はできない人の「できない」さ加減を思い知る。

自分はプログラミングをどう会得したかを思い出す。
時間をかけて経験を積んで慣れる。これしかない。わけではないがこれが大きいはず。
ただ時間をかけるだけではおそらくダメ。経験の質と量、どちらが欠けてもダメなはず。

自分はお絵描きに対して時間をかけて経験を積んで慣れることができるだろうか?おそらくとても難しい。
何度も飽きて他のことに目移りしてきた。何度目だ?
まあそれはいい。なぜ継続できない?
格ゲーマーのウメハラが言っていた。「ゲームに飽きるのではなく、成長しない自分に飽きる」のだと。

nlab.itmedia.co.jp

これは正しいのかもしれない。
個人的にはプログラミングは再現性がとても高く、成功体験を積みやすいため、成長を感じやすい部類だと思う。コピペすれば同じように動くはずなので。
お絵描きやスポーツ、勉強などはそういうことができない。人によって筋力や知能、感性がまるで違う。同じ方法で同じような結果が出せるなら、学校のテストで赤点とる人はいないはず。

「できるまでやる」というのはある意味では才能といえるのかもしれない。誰かが言ってた気がする。
たまたま自分がプログラミングに適正があったから、再現性があるだの成功体験を積みやすいだのと思っているだけかもしれない。

ということでできない人の「できない」はできる人から見たら想像できないくらいにできないということ話だった。

自分がお絵描きをうまくなるには十分な時間と良質な成功体験が必要であり、成長しない自分に向き合い、辛抱強く成長を待ってあげる必要がある。